少し前の話になってしまいますが、明治天皇の弦孫でもある竹田恒泰氏が、2021年1月号の雑誌「正論」のにおいて、ハンコについて言及されていました。
タイトルは「君は日本を誇れるか〜第80回河野大臣に告ぐ『ハンコ』を悪者にした罪は大きい」
その後「正論」で言及された内容に、ご本人が加筆修正したものを2021年2月に入手することができました。
自由に利用していいとのことですので、大変遅くなりましたが今回のブログでご紹介します。
竹田恒泰氏が書かれた「判子文化を守る意味」をご紹介します
まずは元のpdfをご紹介し、あとに文字起こししています。
判子文化を守る意味
判子文化を守る意味
竹田恒泰
本当に判子は「無用の長物」なのだろうか。河野太郎行革大臣が、行政改革の一つの柱として、行政手続き上の押印廃止を進めたことで、判子が悪者扱いされるに至ってしまったことは悲しむべきことであると私は思う。
伝統は、歴史のなかで取捨選択を繰り返してもなお人々によって守られてきたものであり、長い間の風雪に耐えながら蓄積されてきた叡智の結晶といえる。千年以上にわたって用いられてきた判子文化を、目先の合理主義によっていとも簡単に廃止してしまうことに何の迷いもないというのは、実に恐ろしいことではあるまいか。便利で良い文化であるから長年用いられてきたのであり、「判子をどのようになくすか」ではなく「なぜ判子が長年用いられてきたのか」に間題意識を向けてもらいたいと思う。
判子は、テレビなどが煽るように、本当に不便で不要なものなのか考えてみたい。欧米人も羨む便利な判子
判子のある社会に生きていると、判子の便利さが当たり前になってしまっていて、現代日本人はその価値が分からなくなってしまっているように思う。
例えば、箸の便利さは、箸を使わない西洋に住んでみて初めて実感できる。平皿にへばり付いたレタスをフォークで剥がして食べようとした時、箸があったら便利だと思うものである。
判子よりサインの方が便利だと思う者は、サイン社会の不便さを知らない者である。もし、契約書や社内の決裁文書などを判子からサインに変更すると、とても不便になることは間違いない。私は香港をはじめ海外に数社の会社を持っているが、決算では五十力所以上の署名する必要があり、相当の苦痛を強いられる。また、海外の会社では、決算以外でも頻繁に署名を求められ、その度に判子の便利さを実感させられてきたものである。
それに、何十回もサインをしていると、最初と最後ではサイン自体がだいぶ変わってきてしまう。それは、後に本当に本人の署名であるかを検証する際の妨げとなる可能性もある。
また、印鑑を偽造しようとすると大がかりだが、サインの偽造は真似して書くだけであるから心理的ハードルが低い。また、日本の刑法では無印文書より有印文書の偽造の方が罪が直いため、その点でもサイン偽造の心理的ハードルは低い。
そして、印鑑証明通りの印影であるかは素人でも判別可能だが、サインの場合で疑義が生じたら、個人で判断するのは困難であり、毎回筆跡鑑定士を雇う必要がある。
それに、日本では判子を渡すこと自体、委任があったものと推定されるため、委任状や印鑑証明なくして代理人に意思表示を委ねることが可能である。たとえば、実印を預けることで、日常の決済は総務担当者に委ねることができる。その他にも、家族に通帳と印鑑を預ければ、委任状がなくても銀行から現金を引き出すことができる。
もし判子が廃止されたら、代理人が署名するに際して、その人物が代理権を持っていることを証明するために、毎回委任状を作成・交付する必要があり、またその委任状も判子なく認証する方法は煩雑である。
判子の便利さは、印鑑登録制度を外して語ることはできない。判子は自分のオリジナル・ロゴマークであり、それを政府機関に登録するごとができるというのは、欧米人が聞いたら、その先進的な制度に驚くという。欧州にはシーリングの文化があり、家や個人のオリジナル・ロゴマークとして用いられているが、政府機関にそのデザインを登録できる国などない。
たとえば米国ではサインを登録できる制度がないため、本人の署名であることを証明するには、わざわざ公証人に認証してもらう必要がある。具体的には、署名に公証人に立ち会ってもらう必要があるため、煩雑かつ相当の要用を要する。日本では印鑑登録制度があるため、印鑑証明書を添付するだけで、本人の印鑑であることを証明することができるのは、実に便利な制度なのである。
欧米のサイン社会は、日本より進んでいるのではなく、実際はその逆で、日本の方が遥かに進んでいたのである。デジタルは本当に便利か?
押印廃止の流れは河野氏の大臣就任前からあり、その流れを利用したのが電子決済を売りにするIT 企業だった。「ハンコを押すために出社した」とのキャッチコピーで話題となり、このフレーズは河野氏の就任後も繰り返しテレビなどで取り上げられた。そして瞬く間に判子は悪者となった。しかし、多くの会社員が押印だけのために出社しているというのは嘘である。押印自体は数ある業務の一つに過ぎず、押印だけの専門職など聞いたこともない。押印だけのために出社する人などいやしない。
近年は社会全体でデジタル化が進みつつあるが、ハッキングの手口は実に巧妙になり、被害に遭った人は相当数に上る。警視庁の広報資料によると、平成三十年のサイバー犯罪の相談件数は十二万件以上で、相談しなかった被害者はその数十倍はいるものと見られる。他方、たとえ判子が盗まれても、直ぐに改印すれば悪用されることは防げるため、自分でリスクを管理することができる。
今後、様々な手続がデジタル化されるだろう。しかし、民間のデジタル認証は、当然利用料がかかることを考慮すると、判子を作った方が全体としては安上がりになることは間違いない。保護者が学校に提出する申請粛類原則デジタル化するそうだが、申請書類に親が署名して押印するのに何か不都合があるだろうか。昨年、中学三年の生徒がスマホを使って教師のパソコンに侵入し、自分の成績を書き換えて書類送検された事例があった。最近の若者にとって、親のパソコンを操作して学校に申請することくらい容易い。
しかも、デジタル認証が安全だというのは間運いである。近年、知らないうちに個人情報が盗まれて、SNS などが乗っ取られ、あるいは見覚えのないクレジットカードの請求を受ける人は多い。大手企業から個人情報が流出したという報適も頻発している。大企業のシステムもいとも簡単に破られてしまうのであるから、個人の情報管理など簡単に破られてしまうのである。他方、自分の実印が偽造されて悪用された経験がある人は、そういるものではない。
デジタル化が進んで、行政手続きの押印が廃止されるのはよいとしても、判子文化そのものは便利なものであり、残すべき文化であると私は思う。河野大臣は色紙に落款を捺して判子文化に寄り添う姿勢を見せたが、単なる罪滅ぼしのパフォーマンスにしか見えない。落款を使う一般人はーパーセントにも満たない。一部の特殊な人が使う判子では意味がない。私が間題にしたいのは、日常生活で普通に用いてきた判子は実は便利なものであるということである。押印だけ廃止する愚
河野大臣は、先ず押印を廃止して、次に書面とファックスを廃止し、デジタル申請に移行していくという。しかし、順序が逆転してはいないだろうか。書面を廃止してデジタル化することによって、自動的にその書面に押印が不要となるというなら分かるが、書面を廃止する前に押印だけを廃止することに何の意味があるのだろう。
平井卓也デジタル改革大臣は、行政のデジタル化には五年は要すると語っている。ということは、河野大臣はサインヘの代替は認めない旨を述べているため、その五年間の移行期間、従来押印が求められていた書類は、押印せずに単にプリントアウトして提出すれば済むということになる。
果たして国民はそのような改革を求めているだろうか。そもそも、一般国民が行政手続きで書類に押印する回数は、そう多くはない。出生や死亡、転入や転出、結婚や離婚などは頻繁にあるわけでもない。そこに押印が要求されても大した負担ではない。それが行政改革の柱だとは噴飯ものである。また、行政では押印を照合しないため、押印が廃止されても、何ら国の経費の削減にはならない。
確かに「認印」とは、何らかの判子が捺されていれば足りるため、他人の判子でも通用する。だが、法律上、無印私文書より有印私文害を偽造した罪が重たいのは先述の通りである。それは、有印文書の方が文書自体の信用性及びその保護の必要性が高いからにほかならない。有印文書の方が、偽造の心理的ハードルが商いのは当然である。つまり、行政手続きの押印廃止は、虚偽の申請や申告を増やすことに繋がる可能性がある。
「給付金詐欺」や「鳥貴の錬金術」で話題になったように、日本人の倫理観の低下が指摘されるなか、押印廃止は、不正の心理的ハードルを下げることになるため、わざわざデジタル化に先行して押印を廃止することは、百害あって一利なしというぺきである。
河野大臣が進める押印廃止の最大の問題は、判子を悪者にしてしまったことである。「押印廃止」とは単に行政手続の押印を廃止するだけだが、一般的には、将来判子はなくなるものと理解された。「デジタル化を進める」というだけではだめだったのか。手っ取り早く押印廃止で成果を誇示しようとしたのではなかったか。判子が悪者にされた代償は計り知れない。合理主義は文化を破壊する
押印は意思を担保するものである。押印する際、朱肉を付けて、曲がらないように向きを確認し、下敷きを敷いて、ぶれないように力を込めて判子を捺す。そのような手間を掛けて作成した書類と、単なるプリントアウトしただけの書類では、何かが違うと思わないだろうか。また、押印する瞬間に、本当にそれでよいか、もう一度考え直す機会にもなる。私が初めて判子を作ったのは十四歳の時だった。当時、印鑑登録できる年齢の下限が十四歳であり、誕生日のあと直ぐに実印を登録した。印鑑鑑定士の先生といろいろお話させて頂き、実印は均衡の取れた運勢の強い印章を、銀行印は金運に特化した印章を作って頂き、それを三十年以上使ってきた。十年ほど前には蔵書印と天覧印まで作成した。
蔵書印は、我が家の本棚の一員となった本に捺す印で、天覧印は、天皇陛下に差し上げた文の写しや、天覧に供した書籍の副本に捺す印である。それ以外にも用途に応じて複数の認印や落款を使い分けている。
判子を長年使っていると、象牙に印泥が染み込んで良い風合いを醸し出している。この実印で契約すると裏切られる気がしないし、この口座の残高が減る気もしない。そして、結婚届にもそんな気持ちで押印したことを覚えている。
「押印廃止」というのは至極合理的な考えだと思う。だが、一見合理的な考えには、予想外の落とし穴が隠れている場合もある。人間は不完全であるから、最善の策を思いついても、そこには何らかの見落としがあると不安な気持ちを抱くのが賢い人間の心理である。
かの孔子ですら、七十歳になってようやく「心の欲する所に従って矩を踰えず(自分の心のままに行動しても人道を踏み外す事がなくなった)」と述べている。まして孔子でもない一介の大臣が、しかもまだ七十歳にも達していない若者が、千年以上親しまれてきた判子文化に手を付けることに畏怖の念を感じないとしたら、その贅格はない。皇統の原理も然りである。
文化に合理主義のメスを入れると、文化という文化はことごとく破壊される。今は判子業界が悲鳴を上げているだけで、他の業界は対岸の火事と思っている様子だが、一且この流れを許したら、あらゆる日本文化が浸食されるだろう。判子問題は、保守全体で立ち向かっていかなければいけない。合理主義の行く末は天皇の廃止である。※本稿は、『正論』令和三年一月号に寄稿した「店は日本を誇れるか(第80 回) ~河野大臣に告ぐ『ハンコ』を悪者にした罪は大きい」を基礎に、加筆・修正したものである。
最後に
さすがプロだけあって、日頃私が発信している内容を非常ににわかりやすくまとめられていると思いました。
今回の内容は、今の日本での伝統と合理化の関係性を見事に指摘されているかのようです。
印鑑が単なる行政手続ではなく、日本の歴史や文化そして伝統でもあるため、維持することが伝統の保護と継承につながること。
印鑑が単なる古い慣習ではなく、法的価値と文化的意義を併せ持つ便利なもので、セキュリティ面においてもデジタル化が必ずしも安全とは言い切れないこと。
そして伝統と合理化のバランスをどのように取るかは、新しい技術や方法を必ずしも過去の慣習や文化と置き換えるべきではなく、お互いの良い点を組み合わせていくべきと主張されています。